わが心 深き底あり bykitarou nisida   

わが心 深き底あり 

新年を迎えますとやはりすがすがしく、なんとなく嬉しい気持ちになるものですが、一休禅師は、「いたずらに喜びはしゃぐだけでなく、現実を正しく認識しなされや」と訴えておられます。
 釈迦もまた欲望を滅するように説いてiいます。
この世は無常であり、形あるものは常に変化していますので、そのものという実体がありません。私たちが感ずる現象は、すべて仮の姿なのです
。しかし、仮の姿ではありますが、無い訳ではありません。
 哲学者の西田幾太郎は、この現実を次のように歌われました。

わが心 深き底あり よろこびも うれいの波も とどかじと思う

 存在するとかしないとか、めでたいとかめでたくないという二元を超えて、現実をそのまま受け入れ正しく認識してこそ、今生かされる自分が輝き感謝できるのです。

あるご婦人ですが、
老いと病を背負われる現実をそのまま認め、
感謝の日々を送られるお姿に感動致しました。
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# by w74108520 | 2011-01-07 20:24 | 禅語

頓悟   

開元中に沙門道一有りて伝法院に住し常日坐禅す。
師是れ法器なるを知り、往きて問う、曰く「大徳、坐禅して什麼(いんも、何)をか図る」
一(道一)曰く「仏と作るを図る」
師乃ち一磚(かわら)を取りて彼の庵前の石上に於て磨く。
一曰く「師、什麼をか作す」
師曰く「磨きて鏡と作す」
一曰く「磚を磨きて豈(あに)鏡と成るを得んや」
「坐禅して豈仏と成るを得んや」
一曰く「如何が即ち是れなる」
師曰く「人の駕車行かざる(とき)の如し。車を打つ即ち是れ、牛を打つ即ち是れ」
一、対無し。
師又曰く「汝坐禅を学ぶは、坐仏を学ぶを為すや。若しは坐禅を学べば、禅は坐臥に非ず。若しは坐仏を学べば、仏は定相に非ず。無住の法に於て、取捨に応ぜず。汝若しは坐仏、即ち是れ仏を殺し、若しは坐相に執さば、其の理に達するに非ず」
一、示誨(じかい、教え)を聞きて、醍醐を飲む如し。

– 『景德傳燈錄』巻第五

南岳懐譲(677 - 744年)
馬祖道一(709 - 788年)
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# by w74108520 | 2011-01-05 18:34 | 禅語

達磨不識   

達磨不識
帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功德
師曰 並無功德
帝曰 何以無功德
師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
帝曰 如何是真功德
答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功德不以世求
帝又問 如何是聖諦第一義
師曰 廓然無聖
帝曰 對朕者誰
師曰 不識
帝不領悟
師知機不契

*

帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」
師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」
帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り。


『景德傳燈錄』第三巻
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# by w74108520 | 2011-01-05 17:28 | 禅語

廓然無聖(かくねんむしょう)   

廓然無聖
禅宗寺院では正月になりますと、
床の間に達磨さんの画の軸を掛け、新年のお祝いするそうです。
達磨さんが中国へ来たときに、梁(りょう)の武帝(ぶてい)と会い、そして仏教について質問をしました。「仏法の根本義、一番大切な所は?」の質問に、梁の武帝は、自分の学の広いところを、ひとつ表現してみたのであります。
すると、「廓然(かくねん)無聖(むしょう)」カラッとして、秋晴れの空のように雲一つない。と答えられました。

 達磨さんは何を言いたかったのでしょうか。
 例えば、素晴らしい仏様の前に座ったとします。
ゆったりとした心境になり、思わず手を合わせたくなるます。
その時の心はスカッと晴れ渡った秋空のようで、仏様と一つになったような心境だと思います。
これを「廓然無聖」と言います。

 我々はお参りをするとどうしても御利益(ごりやく)を求めてしまいます。わらにもすがる思いの祈願でしょうから当然のことかもしれません。
しかし、そこにある願望やご利益を求めているという自我が煩悩を招くのです。
それを戒めているのが「廓然無聖」です。

暮らしの中で、思い通りにならないことは数多くあります。その度に、立ち止まり、霧の中に彷徨(さまよ)ってしまうのが私たちかもしれません。そのような時、とらわれることなく歩みを進めていくことが大切です。
 日々訪れる出来事すべてが当たり前であり、そのままを受け入れていくということがこの上ないことです。

 「廓然無聖」は無心になることです。「空」とも「無」とも置き換えられる言葉です。
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# by w74108520 | 2011-01-04 20:14 | 禅語

1-3全体脈について   

1-3全体脈について(中脈)

全体の脈状は中脈で判断する。
例えば軽按して拍動をよく感じ
重按で感じられなくなれば浮脈となる。
他の脈状もそこで診る。

浮沈 遲数 虚実 
をとりあえずわかるようにする。

按じ方にコツがある。
寸口と尺中では脈幅が違う。
寸口は浅く尺中は深い。
指先に力が入り過ぎていると判らない。
重按の深さで指が立たないようにする。
血管を握り潰さないようにする。
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# by w74108520 | 2010-12-31 00:21 | 脈診

1-2脈の按じ方   

1-2脈の按じ方
脈の按じ方に浮中沈の三法ある。
ここでは脈状と重なるので
煩雑をさけるため、
浮を軽按、
中を中按、
沈を重按とする。

1-2-1軽按
軽く指を乗せただけで
脈の拍動を感じる。
感じなければそれで良い。
腑や陽経の状態を診る。

1-2-2中按
次に左右の六部位を同時に按圧して
平等に感じるまで指を沈める。
平等に感じようとすれば、
按圧の程度にデコボコが生ずるはずである。
少なくとも左右差が生じてくる。
胃の気の状態をみる。

1-2-3重按
デコボコのままゆっくり按じて
拍動を感じられるか診る。
陰経や臓の虚実を診る。

別法として三本指を揃えて
そのまま按圧するやり方もある。
尺中が判りづらいので按圧に加減がいる。

ご批判もあると思うが、
これは初心者向きのやり方であることを
お断りしておく。

筆者の場合は
例えば軽按は中脈から指を上げて
指が血管から離れる直前まで診ている。

各自段階があり宜しく斟酌していただきたい。
やり方が違うというのは
診るところが違うからである。

 結果として
寸口は軽く尺中は重くなるようになれば
いつのまにか
六部位の脈状をも診ていることになる。
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# by w74108520 | 2010-12-30 23:50 | 脈診

水のごとくに by mumon yamada   

水のごとくに

水のごとく よどみなく
さらさらと 流れたい。
どんな良いことがあっても、
どんな悪いことがあっても、
うしろをふり向かずに、
前へ前へ、
さらさらと流れたい。
左右の岸にどんな美しい花が
咲いておっても、
どんなに楽しく小鳥が
鳴いておっても、
その美しさをほめながら、
その楽しさをよろこびながら、
足ぶみせずに流れよう。
流れる水は凍らぬとか。
流れる水は腐らぬとか。
それが生きておると
いうことであろう。
田畑をうるおし、
草木を養い、
魚を育てながら、
決して高きを望まず、
低い方へ低い方へ、
水の流れる如く、
わたくしも流れたい。
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# by w74108520 | 2010-12-25 14:58 | 健康

仙台光の都 2010SENDAI光のページェント   

定禅寺通り
光のページェントは事故で停止していましたが、
試験点灯は25年で初めてだそうです。
SENDAI光のページェントは22日から全面点灯します!

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# by w74108520 | 2010-12-21 21:02 | 風景

仙台広瀬通り風景   

仙台商店街夜景

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笹かまぼこ

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ずんだシェイク

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抹茶ソフトクリーム
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# by w74108520 | 2010-12-21 20:40 | 風景

仙台駅周辺夜景   

仙台駅前

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駅構内のツリー


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仙台空中回廊


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祝基督聖誕祭
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# by w74108520 | 2010-12-21 20:16 | 風景