カテゴリ:禅語( 10 )   

体露金風(たいろきんぷう)(碧巌録)   

体露金風(たいろきんぷう)(碧巌録)

     僧問う「樹凋み 葉落つる時如何」
     雲門曰く「体露金風」



体露=そのまま露われ出ているさま。
金風=秋風のこと。秋は五行説(木、火、土、金、水)では金にあたる。
よって秋風のことを金風という。

秋深まり木々は生気を失い落葉し、早や地上では枯れ葉舞う時節である。
この情景を眺めて
、ある僧が雲門和尚「和尚もこの時節のように大分お年を召されたようですが、
近頃はどんな心境でおられますか?

雲門すかさず「体露金風」=わたしはもう煩悩妄想の木の葉をすっかり吹き払った秋風のように無心で、すっきりした心境だよ。と答えた。

そこには是非、善悪、好悪、とか言う分別心の枝葉も削ぎ落ちてしまっている。

あらわれでたる真実そのものの境地を吐露したことばである。
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by w74108520 | 2011-07-08 09:13 | 禅語

ある時は、自己を奪って万境を奪わない。   

師晩參示衆云、
有時奪人不奪境、有時奪境不奪人、
有時人境倶奪、有時人境倶不奪。
時、有僧問、如何是奪人不奪境。
師云、煦日發生鋪地錦、瓔孩垂髮白如絲。
僧云、如何是奪境不奪人。
師云、王令已行天下遍、將軍塞外絶烟塵。
僧云、如何是人境兩倶奪。
師云、并汾絶信、獨處一方。
僧云、如何是人境倶不奪。
師云、王登寶殿、野老謳歌

師、晩參、衆に示して云く

有る時は、奪人不奪境、
有る時は、奪境不奪人、
有る時は、人境倶奪、
有る時は、人境倶不奪。

師は、ある夜の説法のとき、修行者たちに教えて言った。

師「ある時は、自己を奪って万境を奪わない。(自己を万法に帰せしめる)
  ある時は、万境を奪って自己を奪わない。 (万法を奪って自己一枚)
  ある時は、自己も万境もともに奪う。    (自己も客観世界も蕩尽する)
  ある時は、自己も万境もともに奪わない。 (自己と客観世界も肯定)


あるときは、山川草木国土宇宙森羅万象。(忘我の境地で、自己を対境に帰せしめる)
あるときは、天上天下唯我独尊。  (自由奔放の境地)
あるときは、絶対無。         (自己も現象世界も存在しない絶対無の境地)
あるときは、自然法爾。        (あるがままの世界の悦楽境)

奪人不奪境...客観のみを肯定。一毫も主観を交えない客観世界。(下根の学人に対する手立て)
奪境不奪人...主観のみを肯定。自由奔放の境地。真実絶対の人。(中根の学人に対する手立て)
人境倶奪.........主・客観を共に否定。自分も対象も忘れる。(上根に対する手立て)
人境倶不奪....主・客観を共に肯定。絶対肯定。(越格の学人に対する手立て)


凡夫は境を取り、道人は心を取る。
心・境双び亡ず、乃ち是れ真法なり。
境を忘ずることは猶お易く、心を忘ずることは至って難し。(黄檗希運)


道忠曰く、「人境倶を奪わずとは、凡情聖解並存し、向上の提持なり」と


四料簡(四料揀)は、「人」(主観)と「境」(客観)に対する認識のあり方をめぐって、
修行過程を4局面から説いたもの。
(1)「人を奪って境を奪わず」(奪人不奪境)
(2)「境を奪って人を奪わず」(奪境不奪人)
(3)「人も境もともに奪う」(人境倶奪)
(4)「人も境もともに奪わず」(人境倶不奪)

(1)「無我」を悟り、自己意識(人)が消えて客観世界(境)になりきる状況。
(2)「無常」を悟り、客観世界(境)は全て空であると観、自己意識(人)のみとなる世界。
(3)「涅槃寂静」を悟り、否定する自分も否定される環境も空であるという静まりかえった世界。
(4)(3)の絶対否定を転じて、「あるがまま」「花は紅、柳は緑」の世界、
   「入廛垂手」、自由無碍、天地自由人の、いわば活発の境地。

また、修行の4段階としてとらえる場合。(師の弟子への接化)

奪人不奪境(主体性を失い、環境に囚われている状態)。一般にはこの状態を生きています。
ここを「対一説」で気づかせると、相手は奪境不奪人に進みます。外界に囚われず、自分自身の内面に深く沈む状態。
この「自己のみ」の状態を「倒一説」で突き崩すと、「人」も「境」も消えてしまう状態が出来上がります。
それを苗床にして、主体も外界も活き活きと動き始め、次の人境不倶奪が生まれ出てくる。
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by w74108520 | 2011-02-18 17:20 | 禅語

不言の教え 矛盾の自己同一   

老子 道徳経 第2章 

天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。
故有無相生。難易相成。長短相較。高下相傾。音聲相和。前後相隨。
是以聖人。處無爲之事。行不言之教。
萬物作焉而不辭。生而不有。爲而不恃。功成而不居。
夫唯不居。是以不去。

天下みな美の美たるを知るも、斯れ悪のみ。みな善の善を知るも、斯れ不善のみ。
故(まこと)に有と無と相い生じ、難と易と相成り、長と短と相い形(あら)われ、高と下と相い傾き、音と声と相和し、前と後と相い随う。
是を以って聖人は、無為の事に処り、不言の教えを行なう。
万物焉(ここ)に作(おこ)るも、而も辞(ことば)せず、為すも而も恃まず。功成る而も居らず。夫れ唯だ居らず、是を以って去らず。

美があまねく美として認められると、そこに醜さがでてくる。
善があまねく善として認められると、そこに不善がでてくる。
だから、有と無はたがいに生まれ、難と易はたがいに補いあい、長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、高と低はたがいに矛盾し、声と音はたがいに調和しあい、前と後はたがいに順序をもつ。
だから、賢者は干渉しないでものごとを扱い、言葉のない教えをする。
万物は間断なく盛大である。
成長していっても、誰れもそれを所有しない。
仕事が成しとげられても、それに頼るものはいない。
達成されても、名声を求めるものはいない。
名声を求めないから、成功はつねにそこにある。

 
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by w74108520 | 2011-01-10 21:20 | 禅語

安心を得る   

莫妄想(まくもうぞう)

中国唐時代の禅僧
無業禅師(760~821)の言葉。

 「無業(むごう)の一生、莫妄想」といわれるように、
無業和尚(760~821)は一生涯、誰が何を尋ねても、
「莫妄想」で押し通したと
いわれています。

「妄想無き時、一心(いっしん)是れ一仏国(いちぶつこく)」。
すなわち、妄想を断ち切ってしまえば、
それがそのまま悟りの心境です。
「莫(まく)」とは、なかれ(・・・)のことで、
禁止の意味を表わします。
「妄想(もうぞう)」とは、
一般的には実体のない虚妄(こもう)の想念(そうねん)のことで、
色気、食い気、欲気などの邪念、空想、迷心を意味しますが
、もう少し深く考えます。

 私たちは、常に、生死、善悪、是非、勝敗など、
二つの相対する概念を作り出し、
その一方に執して苦しみ、迷うのですが、
この二つに分けて見る相対的な分別心そのものが
、すでに妄想というのです。
故に莫妄想とは、
生死、善悪、是非に
なり切ってやって行け! 
というわけです。

“莫(な)かれ”という消極的な言葉に反して、
より積極的に、
生死、是非、善悪、勝敗などに
こだわることなく、
全身全霊を挙して
一心不乱にやり貫けというのです。
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by w74108520 | 2011-01-10 19:14 | 禅語

真の自分を取り戻す   

放下著 (ほうけじゃく)    

厳陽尊者 趙州に問う
 「一物不将来 (ふしょうらい) の時如何」
趙州答えて曰く
 「放下著」
厳陽問う
 「已に是れ一物不将来、這の什麼をか放下せん」
趙州答えて曰く
 「恁麼ならば即ち担取し去れ」

厳陽尊が質問します
 「何もかも捨て去って
一物持っておりませんが、
そんな時如何致しましょう」
趙州答えて仰るには
 「投げ捨ててしまえ」
厳陽が質問します
 「すでに何も持っていないのに、
何を捨て去れと言われるのですか」
趙州答えて仰るには
 「それなら、担いでいきなさい」


 趙州和尚は
何も無いという事に執着(しゅうじゃく)して
囚われることがいけない
と言われたのです。
 人生は毎日が苦労の連続です。
こうした悩みを切り抜けるためには、
確固とした意志と決断力で
悪循環を断ち切ることが
大切になるのです。

二元の相対する思いを
放下することで
気が楽になり、
清らかな真の自分を取り戻すことが
できるわけです。

従容録第五十七則
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by w74108520 | 2011-01-10 18:33 | 禅語

庭前柏樹子   

趙州因僧問。如何是祖師西來意。州云。庭前柏樹子。
無門曰。若向趙州答處。見得親切。前無釋迦。後無彌勒。頌曰。言無展事。語不投機。承言者喪。滯句者迷。

趙州、ちなみに僧問う、如何なるか是れ祖師西来の意。
州云く、庭前の柏樹子。
無門云く、若し趙州の答処に向かって見得して親切ならば、前に釈迦無く後へに弥勒無し。
頌に云く、言、事を展ぶること無く、語、機に投ぜず。言を承くるものは喪し、句に滞るものは迷う。

「達磨は、なぜわが国に来たのですか。」
趙州は僧が「始祖達磨大師がインドから中国に来て伝えようとした心とは何か」
 と尋ねたので、「庭先の 柏の樹だ」 と答えた。

無門は評して言う
 もし趙州の答えたところを、ぴたりと見て取ることが出来たらなら、過古仏の釈迦も未来仏の弥勒もないだろう。ただ今、此処、自己の独尊仏だけだ」。

無門は頌つて言う
言葉は機敏にふれてこない。
言葉をそのまま受け取る者は原事実を失い、語句に執われる者は迷う。


「無門関」第三十七則
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by w74108520 | 2011-01-07 20:51 | 禅語

わが心 深き底あり bykitarou nisida   

わが心 深き底あり 

新年を迎えますとやはりすがすがしく、なんとなく嬉しい気持ちになるものですが、一休禅師は、「いたずらに喜びはしゃぐだけでなく、現実を正しく認識しなされや」と訴えておられます。
 釈迦もまた欲望を滅するように説いてiいます。
この世は無常であり、形あるものは常に変化していますので、そのものという実体がありません。私たちが感ずる現象は、すべて仮の姿なのです
。しかし、仮の姿ではありますが、無い訳ではありません。
 哲学者の西田幾太郎は、この現実を次のように歌われました。

わが心 深き底あり よろこびも うれいの波も とどかじと思う

 存在するとかしないとか、めでたいとかめでたくないという二元を超えて、現実をそのまま受け入れ正しく認識してこそ、今生かされる自分が輝き感謝できるのです。

あるご婦人ですが、
老いと病を背負われる現実をそのまま認め、
感謝の日々を送られるお姿に感動致しました。
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by w74108520 | 2011-01-07 20:24 | 禅語

頓悟   

開元中に沙門道一有りて伝法院に住し常日坐禅す。
師是れ法器なるを知り、往きて問う、曰く「大徳、坐禅して什麼(いんも、何)をか図る」
一(道一)曰く「仏と作るを図る」
師乃ち一磚(かわら)を取りて彼の庵前の石上に於て磨く。
一曰く「師、什麼をか作す」
師曰く「磨きて鏡と作す」
一曰く「磚を磨きて豈(あに)鏡と成るを得んや」
「坐禅して豈仏と成るを得んや」
一曰く「如何が即ち是れなる」
師曰く「人の駕車行かざる(とき)の如し。車を打つ即ち是れ、牛を打つ即ち是れ」
一、対無し。
師又曰く「汝坐禅を学ぶは、坐仏を学ぶを為すや。若しは坐禅を学べば、禅は坐臥に非ず。若しは坐仏を学べば、仏は定相に非ず。無住の法に於て、取捨に応ぜず。汝若しは坐仏、即ち是れ仏を殺し、若しは坐相に執さば、其の理に達するに非ず」
一、示誨(じかい、教え)を聞きて、醍醐を飲む如し。

– 『景德傳燈錄』巻第五

南岳懐譲(677 - 744年)
馬祖道一(709 - 788年)
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by w74108520 | 2011-01-05 18:34 | 禅語

達磨不識   

達磨不識
帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功德
師曰 並無功德
帝曰 何以無功德
師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
帝曰 如何是真功德
答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功德不以世求
帝又問 如何是聖諦第一義
師曰 廓然無聖
帝曰 對朕者誰
師曰 不識
帝不領悟
師知機不契

*

帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」
師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」
帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り。


『景德傳燈錄』第三巻
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by w74108520 | 2011-01-05 17:28 | 禅語

廓然無聖(かくねんむしょう)   

廓然無聖
禅宗寺院では正月になりますと、
床の間に達磨さんの画の軸を掛け、新年のお祝いするそうです。
達磨さんが中国へ来たときに、梁(りょう)の武帝(ぶてい)と会い、そして仏教について質問をしました。「仏法の根本義、一番大切な所は?」の質問に、梁の武帝は、自分の学の広いところを、ひとつ表現してみたのであります。
すると、「廓然(かくねん)無聖(むしょう)」カラッとして、秋晴れの空のように雲一つない。と答えられました。

 達磨さんは何を言いたかったのでしょうか。
 例えば、素晴らしい仏様の前に座ったとします。
ゆったりとした心境になり、思わず手を合わせたくなるます。
その時の心はスカッと晴れ渡った秋空のようで、仏様と一つになったような心境だと思います。
これを「廓然無聖」と言います。

 我々はお参りをするとどうしても御利益(ごりやく)を求めてしまいます。わらにもすがる思いの祈願でしょうから当然のことかもしれません。
しかし、そこにある願望やご利益を求めているという自我が煩悩を招くのです。
それを戒めているのが「廓然無聖」です。

暮らしの中で、思い通りにならないことは数多くあります。その度に、立ち止まり、霧の中に彷徨(さまよ)ってしまうのが私たちかもしれません。そのような時、とらわれることなく歩みを進めていくことが大切です。
 日々訪れる出来事すべてが当たり前であり、そのままを受け入れていくということがこの上ないことです。

 「廓然無聖」は無心になることです。「空」とも「無」とも置き換えられる言葉です。
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by w74108520 | 2011-01-04 20:14 | 禅語