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廓然無聖(かくねんむしょう)   

廓然無聖
禅宗寺院では正月になりますと、
床の間に達磨さんの画の軸を掛け、新年のお祝いするそうです。
達磨さんが中国へ来たときに、梁(りょう)の武帝(ぶてい)と会い、そして仏教について質問をしました。「仏法の根本義、一番大切な所は?」の質問に、梁の武帝は、自分の学の広いところを、ひとつ表現してみたのであります。
すると、「廓然(かくねん)無聖(むしょう)」カラッとして、秋晴れの空のように雲一つない。と答えられました。

 達磨さんは何を言いたかったのでしょうか。
 例えば、素晴らしい仏様の前に座ったとします。
ゆったりとした心境になり、思わず手を合わせたくなるます。
その時の心はスカッと晴れ渡った秋空のようで、仏様と一つになったような心境だと思います。
これを「廓然無聖」と言います。

 我々はお参りをするとどうしても御利益(ごりやく)を求めてしまいます。わらにもすがる思いの祈願でしょうから当然のことかもしれません。
しかし、そこにある願望やご利益を求めているという自我が煩悩を招くのです。
それを戒めているのが「廓然無聖」です。

暮らしの中で、思い通りにならないことは数多くあります。その度に、立ち止まり、霧の中に彷徨(さまよ)ってしまうのが私たちかもしれません。そのような時、とらわれることなく歩みを進めていくことが大切です。
 日々訪れる出来事すべてが当たり前であり、そのままを受け入れていくということがこの上ないことです。

 「廓然無聖」は無心になることです。「空」とも「無」とも置き換えられる言葉です。

by w74108520 | 2011-01-04 20:14 | 禅語

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